moyotanのブログ

70を前にして、ふと・・・感じていることを・・・

「お客様は神様です」の真意は?!

「お客様は神様です」の真意は?

 

あの頃「ダサい」と見向きもしなかった歌手の人たちや歌の数々・・・

 

やっと「凄さ」「上手さ」「素晴らしさ」を

実感し始めた今日この頃です。

 

高齢になると「頑固になる」と言われていますが、

本当にそうなのでしょうか?

 

もしかしたら、さまざまな経験をした高齢者の方が

世に言う「多様性」を受け入れられるんじゃないのかしら?

 

私は、昔よりいろんなことに「なるほど」と言えるようになった気がするんですけど・・・

 

高齢者と一律に言っちゃダメか?!

 

 

話が逸れそうになってきたので、戻します。

 

若い頃は苦手だったり、興味が持てなかった歌や歌い手の話でした。

 

 

BS番組で「武田鉄矢昭和は輝いていた」を時折、観ます。

 

ちょっと暑苦しい武田鉄矢さんですが、

彼のラジオ番組「今朝の三枚おろし」は好きなラジオ番組です。

彼の読書量と読み解きの素晴らしさに、

いつも脱帽しています。

 

毎朝の番組なので、最近ではポッドキャストで1週間まとめて聴いています。

 

 

今日の「お題」

「お客様は神様ですの真意は?」ですが、

 

この言葉は、三波春夫さんの言葉です。

東京五輪音頭」や浪曲歌謡で有名な、

着物姿で、声がよく通って、歌がうま~い、三波春夫さんです。

 

私にとって三波春夫さんは・・・と考えても

 

私の子どもから思春期には

「チャンチキおけさ」「船方さん」「東京五輪音頭」「世界の国からこんにちは」などが、巷では流れていました。

 

・・・でも、とにかくダサく感じ、自ら好んで歌を聴いたり観たりはしていませんでした。

 

大人になって、

大学病院のリハビリ科に勤務していた時、

仲良しだった同僚のイケメンの理学療法士さんが、

なぜか「オハコ」で、カラオケや宴会で必ず歌って、

上司や教授を笑わせたり、場を盛り上げていました。

この時、私は心の中で

ため息をつきながらアンタ、私と同じ歳で・・・ああ・・・と呟いていました。

 

そう、20代の私が好んで歌う歌ではなかったのです。

 

お父さん世代の三波春夫さんの歌や姿を

ダサいと思いながらも、

「この歌手はすごいなー」と内心思っていたのも事実です。

 

 

紅白歌合戦で、聴いた浪曲歌謡「俵星玄蕃」や「一本刀土俵入」などは、

「なんだこりゃー」と、歴史や講談好き私は感心していました。

 

三波春夫さんは、元々浪曲師だったというのは有名でしたから、頷けました。

 

時は経て・・・今

私は毎朝、「今日は何の番組を録画しようかな」とテレビの番組表を開けます。

 

ニュースや朝の番組以外は

私はリアルタイムではテレビを観ません。

テレビっ子として育った私なので、

テレビの前から離れられなくなりそうなんです。

だから、朝、番組を予約して、

それなりの1日を過ごして、

細切れのときもありますが、好きな時に録画を観ます。

 

昔は「残しておく」ため録画でしたが、

その要素はありつつも、放送時間に自分の生活を支配されたくないことと、

CMをすっ飛ばすことができること、

中断できるメリットがありますね。

 

 

話が逸れ出しました。

 

そう、三波春夫さんです。

 

何気に、予約録画の表を見て、

 

「この人はよく通る声で、歌が上手かったし、浪曲仕立ての歌は講談のようで面白かった。すごかったなー」と、三波春夫さんを思い出しました。

 

BS番組「武田鉄矢昭和は輝いていた」を録画しました。

 

生誕100年を記念して三波春夫さんを取り上げていたのです。

 

武田鉄矢さんは

番組冒頭「今注目する意味がある」と言い

中盤では熱く三波さんに成り切って演じ

また番組終盤では「もっと早く知っておけばよかった」と悔しがっていました。

 

三波春夫さんのお嬢さんも出演されていて、

ヒット曲にまつわるお話や生い立ち、背景などにを詳しく話していました。

 

その中で、浪曲歌謡を迫力で演じる三波さんの話になった時、

アナウンサーが質問しました。

 

<三波さんも大変だったんじゃないですか?>

 

三波さんのお嬢さんは

「そのためには集中しなくちゃならないんです」

 

武田さん

<やっぱり神様の前でやるつもりじゃないと、

そんな気持ちじゃないと、とてもとても語り遂せないんでしょうね?>

 

お嬢さんは

「そうなんですね。

俵星玄蕃(元禄名槍譜 俵星玄蕃)なら

その登場人物になり切るという集中の想いが

『お客様は神様です』という言葉になるんですが・・・

 

歌う時に、心を真っ新に、雑念を払って、まるで神前に立って、祈る時のように歌わなければ、完璧な歌は歌えない。

 

『だから私(三波春夫)はお客様を神様と思って歌います。』と三波は言っていました。

三波が言った神様は観客であって、

レストランやバスのお客様ではなかったんです。

 

自分の歌を、お金を払って聴きに来てくださるお客様を

満足して帰さなければいけない。

三波とって、それが絶対条件だった・・・だから三波の歌は集中力が必要だったんです」

 

と「お客様は神様です」の真意を述べていました。

 

 

三波春夫さんがもちろん歌が好きというのは前提ですが、

それを突き動かすものがとても強かったようです。

 

戦争、シベリア抑留などを経て

突き動かされるように、神様と向き合って歌を歌っていることを番組を観ていて知りました。

 

 

それは

シベリア抑留で、

仲間を勇気づけようと、浪曲を披露して、それを観た仲間が、

「歌の向こうに日本を見た」と言ったそうです。

 

そしてもう一つのエピソードを紹介していました。

シベリアの人のアパートの修理に行った時、

ロシア民謡の「カチューシャ」を歌いながら作業をしたそうです。

 

そうしたら、ロシア語で感動を表す「ハラショー」と言われ、

「(ロシアオペラ歌手の名前を挙げ)〇〇のようだ」

「あなたが日本に帰れることを願っている」と

食事とお土産のパンを振る舞われたそうです。

 

三波春夫さんの著書の中で、

「一曲の歌が国境を超えた時

人は忽(たちま)ち心の扉を開く

民族の壁を取り払い、

歌は声を通じていま、

人の情けに伝わる心、

そこが寒いシベリアであっても

人々の胸にそっと

暖かな春かぜを呼び寄せる

ああ、一曲の歌が国境を越える時」

 

と書いています。

 

三波春夫さんは、戦争、そしてシベリア抑留を経験して、

誰より「平和」「明るい世界」を心に刻んで、

東京五輪音頭」や「世界の国からこんにちは」他多くの歌を

 

もしかしたら「ああ、歌が国境を越えるぞー」と実感しながら、歌っていたのかもしれません。

 

私、覚えたてのギターでよく岡林信康さんの「友よ」を、

本気で理想の世界の「夜明けは近い」と思い、その歌詞を自室で叫んでいたのを思い出しました。

ちょっと変なことを書き始めましたかね?

三波春夫さんの歌と並べて書くのはおこがまし過ぎますね。

 

何が言いたいかというと、

子どもの私でさえ、平和とか理想の世とかを意識する時代背景があったなーと、

ふと思ったのです。

 

私の歌は他の人たちに伝わりませんが、

あの歌唱と心を持って

三波春夫さんは「東京五輪は、万博は、国境を越えるんだよ」と本気を伝えようといていたと思います。

 

東京五輪音頭」は三橋美智也さん、坂本九さんなど多くの人がレコードを出しながら、三波春夫さんの声ばかりが耳に残っていると武田さんも言います。

 

本当にそうでした。

 

そのことに関連して、

お嬢さんは「自分の持ち歌を差し置いて<東京五輪音頭>を歌いまくっていた」と述べています。

つまり、平和や明るい世界への喜びと望みが溢れていたことを表しています。

 

そう、あの歌が流れていた時代、私が小学生でした。

1964年の東京オリンピックは今でも鮮明に記憶にあります。

 

2年前の東京オリンピックと比べて・・・

 

2年前の東京オリンピックでは「アスリートファースト」という言葉がやたら印象に残りました。

 

64年の時、「オリンピックは世界平和の象徴」と高揚感いっぱいで味わい、競技を観ました。

 

また、当時、大学生だった姉が、選手村のボランティアでアフリカやアジアの選手と写真をたくさん撮っていたから、

余計に、世界の国とか平和という言葉が身近になったんでしょう。

 

私にとって、閉会式は感動そのもので、終わってしまうのが悲しくて・・・

 

子どもの私でさえ、平和の祭典に高揚感を募らせたのですから、

戦争を体験した多くの国民が「平和」を胸に刻んでいたんだろうことは容易に考えられます。

 

私の世代は、上の世代の方々からいっぱい学びました。

TVでもラジオでも本でも歌でも、

「平和」について、いっぱい影響を受けました。

 

上の世代、つまり平和を実感として語ってくれる人たちがどんどん少なくなってきました。

みんなに影響を与えるような有名な方々も少なくなってしまいまいた。

 

今、とても寂しく、不安です。

 

数年前、90過ぎのご婦人が、プールの更衣室で、

「安倍さん、嫌い。あの人を見ていると、

今が、戦争前の世の中と全く同じになって来ている。嫌だー」と話しておられました。

 

あの時代を知らない私でさえ、

得体の知れない戦争の気配を感じざる得ません。

 

 

最後に三波春夫さんが舞台の最後に歌っていたという歌を紹介します。

作詞三波春夫 作曲(あのザ・ピーナッツを育てた)宮川泰

による

 

「終わり無きわが歌の道」

 

私の歌のふるさとは 父の民謡

私の歌の思い出は 母の子守唄

私の歌の故郷は日本の心

私の歌の生甲斐は人々の笑顔

 

よろこびの湧き立つ手拍子に

命の限り私は歌う

人生がこの中に 真心と愛が溢れて

悲しみを洗う 涙の如く

新しい夢かけて 歌よ 翔け

愛する国に 歌よ 翔け  

 

私の歌のふるさとは

流行歌と浪花節

私の歌の思い出は

小学校のオルガン

私の歌の故郷は 日本人の心

私の歌の生甲斐は 人々の笑顔

 

よろこびに 湧き立つ手拍子に

命の限り私は歌う

人生がこの中に 真心と愛が溢れて

悲しみを洗う 涙の如く

新しく夢かけて 歌よ 翔け

(新しく夢かけて 歌よ 翔け)

愛する国に歌よ翔け

 

あゝ終わり無き我が歌の道

終わり無き我が歌の道

 

遥か 遥か 遥か 遥か 遥か

 

 

ありがとうございました。