『世界を手で見る、耳で見る』
副題<目で見ない族からのメッセージ>の著者堀越喜晴(ほりこしよしはる)さんは前書きで以下のように述べています。(細かい言葉を省きます)
もとより私は、「障害者」の表記法にも、また、呼称にも、さほどこだわりを持たない。
しかし、障害者との対比でよく用いられる「健常者」という言葉には、どうにもなじめない。
だいたい、この世に常に健康だなんていう人が果たしているだろうか。
いや、健康なのが常態であるという意味であれば、
私だって「健常者」だ。
視力がないことが常である私にとっては、目が見えないことをひっくるめて「健康」なのである。
なので、私の中では「障害者」と「健常者」とは、決して対立概念ではない。
と前書きで述べています。
(なるほどです。目が見えない方にとって、それが常態ならば健常者なのですね)
副題の<目で見ない族>また本編にも度々出てくる、<目で見る族>という言葉は著者の盲学校時代の友人が考案したそうです。
(この見方、私は好きですね)
という具合で、私は前書きだけで、既に、この本にハマった状態です。
今の私の場合、初っ端の細部に既に囚われてしまっています。
で、著者の堀越喜晴さんは
1957年生まれ。(私より3歳年下ですね)
網膜芽細胞腫という病気で、2歳半以前に両眼を摘出して、全盲。
筑波大学博士課程終了して、専門は言語学、キリスト教学で、立教大学や明治大学で教鞭を取っておられます。
この堀越さんの著作『世界を手で見る、耳で見る』副題<目で見ない族からのメッセージ>は、
毎日新聞が発刊している「点字毎日」に連載されたものだそうです。
この本が私のアンテナに引っかかったのは・・・
私の過去の経験からです。
ちょっと、私の過去を振り返ります。
私は作業療法士として、20年間働きました。
そのほとんどは、精神科領域の作業療法でしたが、
約40年前、大学病院のリハビリテーション科に所属していた時に、
身体的精神的リハビリを目的とした患者さんを担当しました。
それは、神経ベーチェット病という病気で、中途失明の患者さんの作業療法でした。
話はそれますが、さだまさしさんの小説「解夏」(映画化もされましたが、)があります。
神経ベーチェット病に罹った主人公が、
徐々に視力を失っていく中での葛藤や、大切な人との関わりを描いていました。
話を戻して、
中途失明の患者さんへの作業療法で、何をしたらいいのやら?
正直、途方に暮れました。
勤務を終えてから、目隠しをして、いわゆる障害体験というやつをやってみました。「にわか障害体験」でした。
患者さんは中年以降に神経ベーチェット病にかかり、視力を失いました。
菓子職人として、結構楽天的に暮らしてきたという感じでしたが、
視力が衰える過程で、漠然とでしょうか?不安・恐怖と共に
精神症状も出て、精神科病棟に入院されていました。
自らは、あまり気持ちを言葉に表さない患者さんだったので、
最初は、私自身の障害体験で気づいた一つ一つを提示して、
「〇〇さんはどう思いますか?」と尋ねながら、
ちょっとでも関心を示したものに
「やってみましょう」と場当たり的で、手探りで、浅い知識のまま
挑んでいました。
そう、「挑む」という言葉が適切で、
プロの仕事ではありませんでしたね。
短期間の作業療法の担当で、彼や家族のために何ができたのか?と感じる前に、退院のために作業療法も終了しました。
視力に障害があるんだから、
「目隠しして障害体験」という単純な発想だけのアプローチでした。
と、とりとめなく過去の視力障害との関わりを述べましたが・・・
こんな経験から40年が経っても
「視力障害」というものが気になるんです。
それは、視力にとどまらず「障害」という言葉全体かもしれません。
「失われたものを補う」ばかり考えていたから・・・
今でも気になっているんでしょうね。
忘れ物のように・・・
というわけで、最近、この本に出会い、
過去と今の「感じ」を考えてみたくなったんだと思います・
この本は、視覚障害を持つご当人が、
「見ない族はこんな風に見ているんだよ。ざっくばらんに話をしようよ」と私に語りかけているように思いました。
過去の反省と共に、ウキウキしました。
「見る」ということはどういうことか
ちゃんと考えたくなりました。
この「世界を手で見る・・・」という本の中にも
「情報の80%は目から入ってくる」という意見は、
晴眼者(目の見える族)の見方に過ぎないというのです。
幼い頃から、<見ない族の人>たちは、情報の処理にあたって、
独特の技術を経験から会得しています。
見ない族の著者の堀越さんも、
大学の講義の際、教室に入って
見えていないのに「今日は出席者が少ないですね」と言ったり、
部屋の天井の高さや窓の開閉の状況を自然と把握しているそうです。
堀越さんは、伊藤亜紗著の「目の見えない人は世界をどう見ているのか」という本も紹介しています。
ここで、伊藤さんは
『目が見えない人の世界を、4脚の椅子の脚が、1本折れたようなものだと考えるのは正しくない』
また
『3脚の椅子が4脚の椅子に比べて不十分だとは言えない』と述べていて
堀越さんも
「この社会は大方、伊藤が言うような『脚折れ椅子』的な、引き算をする見方で障害者を見ている」
と言っています。
私自身、「失われたものを補う」という作業療法のアプローチをしていたように
障害を引き算をして捉えていたと思うし、そこを重視きたと・・・・実感します。
この時代、よーーく使われるようになった「障害も個性」という言葉ですが、
もちろん、頭では理解していますが、
70を前にして、他の人の「個性」を実感を持って生きよう、と思います。
ちょっと前、「恋です!ヤンキー君と白杖ガール」というテレビドラマがありましたね。このドラマを見て、
40年前、「白杖の使い方」「点字の打ち方」(点字盤と点筆よる打ち方やタイプライター)の勉強を思い出しました。
とても興味深く、楽しい経験で、実は、本格的に点訳をやってみたいとも思っていたんですよ。